| 想い出のコーヒー 古びた木製のガラス入りドアを開け、中に入って最初に吸い込んだ空気はコーヒーの香りに満ちていた。たまたま通りかかって入った喫茶店だが、おいしいコーヒーが飲めそうだ。奥の落ち着けそうなテーブルを選んだ。その店のオリジナルブレンドを頼みBGMのジャズを聴いていると、ふと、ある記憶が甦ってきた。 「コーヒーはお砂糖入れないほうがおいしいよ」 「そう?」 あれから何年たった? もう10年も前のことだ。コーヒーをおごると言って誘った彼女。あの店でぼくの想いを伝えるつもりだった。初めて飲んだ砂糖なしのコーヒーは彼女の言ったとおりおいしくて、少し感動した。彼女はよくしゃべった。ぼくはほとんどあいづちをうつばかりで、本当に言いたいことを言うタイミングが見つからない。1時間くらいその店にいただろうか、ついにぼくの想いを伝えそこねた。でも、楽しかったし、また誘えばいいかとその日はあきらめた。 それから何日かたって、彼女がぼくの先輩とつきあい始めたと知った。 「しまった」 その時はほんとに後悔した。あの店で、決して悪いムードではなかったし、思いきって言うべきだった。悔しかった。結局あれが彼女との最初で最後のデートになってしまった。 コーヒーが運ばれてきた。ぼくはあれ以来コーヒーに砂糖は入れなくなった。ミルクを少し入れ、一口飲んだ。ああ、おいしい。香ばしく深みのある味。あの時のコーヒーに似ている気もする。ぼくは思い出付きの特別の一杯をゆっくり味わった。飲み終えしばらくぼんやりした後、席を立ち出口に向かった。財布を出しながら、なにげなくカウンターの向こうを見た瞬間、ぼくは固まった。コーヒーをたてながらこちらを見ているのはたった今思い出していた彼女だった。微笑んでいる。その時、この店へ入ったのも、彼女のことを思い出したのも、偶然ではなく、すべて彼女が導いていたのだという勝手な妄想で頭がいっぱいになった。彼女は言った。 「ありがとうございました」 甲高い声にはっとして、あらためて彼女の顔をよく見た。知らない人だった。 |